東日本の大地震に伴って発生した原発の事故の際、何度も耳にしたのがチェルノブイリの事件でした。
同様に原子力発電所で、世界最悪の被害を出した事故でした。
マスコミというのは問題が熱い内は否応無く耳に入ってくるほどの情報を流してくれるのですが、問題が冷めてくると、ちょうど民主党の菅内閣の対人の話題に集中し始めたように、徐々に遠ざかっていってしまいがちです。
今回はチェルノブイリの事故から5年後、現地で多発していた甲状腺ガンの治療の為に日本から旅立っていった菅谷 昭さん(現・松本市長)のお話を読んでみました。
元々、原子力の事故に対する強い関心があってチェルノブイリへいったわけではないそうです。
大学病院(信州大学)で助教授の地位にまでなっていて、順風満帆とも言える人生を送っていたのですが、一方で『満足して死ねる』人生の模索をしていたと言います。
大きな契機となったのは専門家として放射性物質が発生すると白血病と、自らの専門である甲状腺ガンが増えるという事に気づいた事だったようです。
そして現地へ発った彼ですが、最初は調査団として大学に籍を置いたままで参加しています。
しかし後に大学を退職して、単身で医師として現地へ赴くことになります。
これは凄くシンプルで、判りやすい理由なんですね。
ひと言で片付けてしまうと語弊があるのかもしれませんが、医療のレベルから来る諸問題はあったのかもしれませんが、現地の医師も甲状腺の手術をして患者を救うことは出来ていました。
しかし、子供の首に大きな傷跡を残す手術しか出来なかったそうです。
菅谷さんは、これが許せなかったそうです。
大人の起こした事件に巻き込まれた子供の体に、消えない…しかも大きく目立つ傷跡を残したくなかった。
これは日本の医療が心がけてきたクオリティオブライフの考えに基づくものだったのですね。
勿論、菅谷さんが現地へ赴いたことで医療の質が向上したのは疑う余地も有りませんが、それ以上に病気を治すだけの医療からの脱却が行われたという点で、高い貢献があったといえそうです。
菅谷さんは五年間現地へ住み込みで働き、現地の医療のレベルが上がったのを見届けてから日本に帰国するのですが、この期間は元々自分で決めておられたそうです。
言葉は悪いかもしれませんが5年間の為に、長い時間をかけて築いてきた大学の助教授という地位を捨ててしまう潔さにはただただだ驚かされるものが有りました。
しかしこの潔さというか、強い覚悟は現地の方にも伝わったようで、医療のためだけに来ているという事は現地スタッフとの意思疎通をよりし易くしてくれたそうです。
なかなか覚悟がないと出来ないことですよね。
また、日本で当たり前のように受けているお医者さんからの診察や、かけてもらっている言葉というものが、どれだけありがたいものなのかという事が良く判るエピソードでした。
僕たちは、恵まれた環境いながら、きっと贅沢が何かという事にも気付かなくなっているんですよね。
でも…チェルノブイリの事故の被害に遭われた方々にも、それが当たり前の事と思えるような時代が来てくれるのであれば、それはそれで、きっと医療に携わる方々も喜ばしいことなのではないかな…なんて、小生意気に考えたりしました。
菅谷さんの市長としての震災を受けてのコメントが発表されています。